菱川師宣の世界:菱川師宣
菱川師宣は、江戸時代初期の絵師・浮世絵師です。菱川師宣は浮世絵の第一人者でもあり、浮世絵の祖とも言われます。記念切手の第一号に描かれている「見返り美人」の作者が菱川師宣になります。春画を多く描いた絵師としても菱川師宣は知られています。美人画に優れ、菱川師宣は「見返り美人」に見られるような一瞬の女性美を得意としました。
菱川師宣は1630年頃、安房国保田(現在の安房郡鋸南町)で誕生しました。その生涯で菱川師宣は100種以上の絵本・挿絵本、50種以上の艶本(えんぼん)、絵づくし類、名所案内記、金平(きんぴら)本、仮名草子、和歌集を残しています。
故郷房州保田を愛していた菱川師宣は、落款に「房陽」「房国」という文字を入れています。保田の別願院には父母、親族の供養のために菱川師宣が梵鐘を寄進しています。
幼い頃より絵を書くのが好きだった菱川師宣は、少年時代から家業である縫箔刺繍(ぬいはくししゅう)業の下絵を手伝っていました。やがて菱川師宣は、縫箔の下書きではなく、本当の絵師を志して江戸へ行くことになります。
江戸で菱川師宣が誰から絵を習ったのかはよくわかっていませんが、菱川師宣は漢画や狩野派、土佐派を学び技術を磨いたと言われます。そして菱川師宣は、挿絵絵師になります。菱川師宣が40歳を過ぎたころには、菱川師宣にしか描けない浮世絵の世界を築き上げていました。
狩野派や土佐派の絵は、武士や貴族たちに喜ばれるものでしたが、菱川師宣が目指したのは町人を楽しませるための絵でした。
その頃の浮世絵はほとんどが肉筆のもので、一枚一枚をそれぞれ描いていたのでした。そのため数が少ない上に値段が高く、町人たちには手に入りにくいものだったのです。そこで菱川師宣は1枚の絵を版画にし、何枚も刷れるようにして安い値段で求められるようにしました。また菱川師宣が描いていたのは遊び場の女や歌舞伎の役者、町で働く人々といった町人の社会で見掛けるものがほとんどでした。そのため菱川師宣の浮世絵は、町人の間で広まっていったのです。
それまで書物の挿絵でしかなかった浮世絵を一般庶民にも楽しめる鑑賞絵画まで高めたのも菱川師宣の功績と言えます。
菱川師宣が考案した版画によって浮世絵が広まると、菱川師宣を慕って集まる絵師が増え、やがて菱川派とよばれる浮世絵の大きな流派に発展していきました。菱川師宣の菱川派はさらに細かな流派に分かれて栄え、浮世絵をすぐれた日本画のひとつへ発展させていったのです。
菱川師宣は1694年6月4日に江戸で亡くなり、菱川師宣の遺骨は別願院に葬られたと思われています。